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面白い文章を書くための2つの要素 教育

なんだか色々な人が褒めてくれるので、今回は文章について書きます。笑
すぐ調子に乗る人間なのであんまりおだてないで下さいね!
上手な文章とは何か、文章能力とはなんなのか、考え続けていた時期が丁度最近ありました。
端的に言うと、共同研究、をやっていたんですね。
そのレポートの文章レベルを統一できず、結局一人が全面的に手直しする事態になりかけて、「これはどういうことだ」と。
ちなみにここで取り上げる「文章」というのは、
韻文ではなく散文
小説文ではなく論説文
だと思ってくださいね。それもそこそこ段落数の多いもの。
このブログの記事や、レポート・小論文あたりのイメージです。
「140字以内」のように短い字数で完結にまとめるのは苦手なんです…。

1.文章を構成する要素
文章を構成する要素は2つあります。
一方は「形式」、他方は「思考」
この両者は全く正反対の要素を持っていて、かつその双方が完成していないと、文章は成り立たない。
…と考えます。
2.「形式」が文の骨組みをつくる
「形式」というのは、言葉遣い、ボギャブラリー、起承転結、リズム感…等々。
いわゆる、小中学校の作文や文章講座で教えてもらうもの、「作法」のようなものです。
よく聞くのは「である」と「です」を混同しないということですね。
あるいは「です」が二回続くと恰好悪いから、「です」の次は「ます」「でした」となるような構成を意識するとか、「の」を三回以上続けないとか、適切な個所で句読点を入れるとか。
こういう細かいことがいい加減だと、文章の格調が落ちます。
「形式」において一番大切なのは、結論、オチをつくることだと思います。
「結局何が言いたいか」がわからない文章は、読まされる側が消化不良で気持ち悪くなります。笑
でも意外と多いんですよね、オチの無い文章。あるいはオチが紙よりも薄っぺらい文章。
ブログであれば起承転結、レポートや論文であればパラグラフライティングを心がけて「構成」を第一に考えなきゃいけません。
3.「思考」が文章の質を決める
はい、ここまで読んで「もうそんなこと知ってるわ」と思ったあなた、正解です。
上に書いたことは、「文章 書き方」でぐぐると、腐るほど出てきます。
そしてレポートの書き方の本を読むと必ず載っています。
ここからが本当に言いたいことなので、まだ帰らないでください。笑
「形式」を忠実に守ったからといって、「正しい文章」が書けても「面白い文章」は書けません。
にも関わらず、いわゆる「文章の書き方講座」には、この最も重要なことが書いていない。
(…もっとも、「正しい文章」すら書けない人間に「面白い文章」は書けないので、まず意識するのは上記のことなんですが。)
まあ「文章の書き方講座」に書いていないのも当然なんですね。ここで述べることは、文章の「書き方」というより、生活全般における「習慣」、あるいはその人の生き方そのものを指します。
ずばり、
あなたはモノを考えて生きていますか?
ということです。
4.「考える」ことを習慣にする
「考える」とはどういうことか。
何かひとつの知識や意見(例:「AはBである」)を知った時、あるいは何かを経験したとき、それに関連する10も20もの知識と経験を思い出すこと。
それらを使って「AはBなのか?本当に?なんで?絶対にそうなのか?これと似ているものは?」と…判断すること。
そして、すでに持っている知識と経験の体系のなかで、その新たなものを「一般化」すること。
※論理学で、さまざまな事物に共通する性質を抽象し、一つの概念にまとめること。概括。普遍化。
(byデジタル大辞泉)
…これが「考える」ことだと私は定義しています。
そして、その人なりの「一般化」のやり方が、文章の面白さであり、その人自身の面白さではないかと。
経験ていうのは、単独ではなんの意味もないんですよ。
たとえば、前の記事で取り上げた
「井の中の蛙で十分だ。だけど、大海について、井戸について、きちんと話し合って考えることこそが重要。」
って言葉。私がたまたま人事部の方から聞いたことばですけど、その人が講演をすれば、もっとずっとたくさんの人が同じようにこの言葉を知ることになる。
だから、この言葉一つ取り上げて「こんなこと聞きましたー」と言ってとりあげても、何も面白くありません。
でも私は、たまたま最近「貧乏でもいいけど貧乏臭くなったらだめ」と考えていて、たまたま江戸時代の知識人のことをどこかで聞きかじっていた。
これが、私の持っていた「知識と経験の体系」です。ここに位置づけたからこそ、
「井の中の蛙で十分だ。だけど、大海について、井戸について、きちんと話し合って考えることこそが重要。」
って言葉が私の論理の中で血の通った言葉として生きるんです。
生まれてから今まで、全く同じ経験をして生きている人はひとりとしていません。
だから、その人自身の人生の人脈の中に何かを位置づければ、それは「生きた言葉」として意味を持ちます。
これが、「考える」ことであり、たった一人の人間にしかできない「一般化」です。
5.自分だけの思考体系を持つ
むき出しの経験を、一般化して「思考」にする。
その「思考」の結晶が哲学であり、思想であり、理念なんだと思います。
そして、「思考」を階層化、重層化したものが「論理」。
ひとつの出来事を、一貫した理念のなかで次から次へと展開できるのが「論理的な文章」です。
何も考えない人には理念も思想も持てません。
「この人がこういったから」「ここにこう書いてあるから」
なんて、無批判に受け入れていたら「自分」がなくなってしまう。
だから、流行りのフレーズの中でしか存在できない言葉、使い古されたお決まりの慣用句、ありきたりな感想…そんなうすっぺらい言葉しか出せないんです。
「春」なんてありふれたお題でも、
「夜桜の根元に死体を埋めた」経験が思考の基盤になっている方と、「毎年コンクリートジャングルの中で花粉症を患っている」方では、全く異なる思考体系の下で文章を書くことでしょう。
あるいは「かつて夜桜の根元に死体を埋めた経験があって、近頃毎年コンクリートジャングルの中で花粉症を患っている」方ならまた違った文章になるかも知れない。
同じ思考体系の中で予想外の要素が組み合わされば組み合わさるほど、文章は面白くなります。
一方、「春はあたたかくて気持ちいい天気です。桜がきれいです。」で終わるのが、何も考えてない人です。
6.本は「読み方」に気を付ける
文章というのは、その人の人格と思考をそのまま映し出す鏡です。
逆に言えば、「文章」でしか、その人の思考は表現できない。
やはり会話には限界があるんですよ。音というのは発された瞬間消えてしまうから、階層化、重層化、論理化の程度に限界がある。
会話の中だけで生きていると、「深く考えること」はできなくなってしまいます。
ま、だから「本読め」って言うんでしょうね。
でも、「本読め」だけでは意味がないんです。
「本読んで作者の思考を追え」「本読んでその知識を自分で考えろ
が「本読め」ってことですよ。
だから、表面だけささーーーーっと流し読みして終わる人、作者の言葉に全面的に納得してしまう人は、多分いくら読んでも意味ないです。
…なんて、ここまでショウペンハウエル「読書について」の受け売りだったりするんですけどね。
ショウペンハウエルの「読書について」は、すごく読みやすい哲学書なのでおすすめです。

つらつらと書いてきましたけど、言いたいことはこの二つ。
「形式」=正しい文章を書こう
「思考」=考えて文章を書こう
以上!


…ふう。いつもに増して長々しくていつもに増してえらそーな文章になりました(--;)
偉そうに書いてますけど、たまに間違ったことも堂々と主張してるので、気軽に指摘しちゃってください。
コメントいつでも大歓迎です^^

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